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〒641-0056 和歌山市秋葉町3-20-703 郭家住宅の会 事務局 

郭家住宅についてABOUT KAKUKE

郭家の系譜

 郭家の初代は、江戸初期 明暦年間(1650年代)に、清の混乱を避けて長崎に渡ってきました。帰化当時はまだ16歳で父は皇帝の侍医だったと伝わっています。長崎では医師として名をなし、その後郭家代々は昭和初期に没した八代目嘉四郎まで医を業としました。
  居を長崎から和歌山に移したのは三代目です。当時和歌山塩屋の光明寺圓通和尚が長崎を訪れた際、三代目と懇意になり和歌山へ移り住んだとされています。 四代目は、寛政6(1794)年より紀州藩の御殿医となり、以降明治2年の藩政改革時の七代目まで紀州藩の御殿医を務めました。六代目は紀州藩における蘭方(西洋医学)を修めた初めての人の一人といわれています。
 郭家最後の御殿医であった七代目(藩政改革後は百輔と改名)は西洋医学を学び、この医療を広めるため明治7(1874)年、和歌山医学校兼小病院の創立に大きな役割を果たしました。この病院は現在の日赤和歌山医療センターの前身となります。
 そして明治10(1877)年、今福の自宅に現在も遺る洋館を建築し郭医院を開業し西洋医学による地域医療に尽力しました。このように百輔は、和歌山における西洋医学の普及に努めた先駆者といって過言ではありません。
 「(郭家)系譜並勤書」及び「郭氏系譜附略歴」より
                           
                                 郭百輔

郭家住宅の構成

 現在の郭家住宅は正面の「洋館」、それに続く「診察室」、さらに「数寄屋座敷」があり、その他にも「離れ」「土蔵」(2棟)「米蔵」「青石塀」「外便所」などがあります。これらのほとんどは国の登録有形文化財として登録されています。 以下に「洋館」「診察室」及び「数寄屋座敷」について解説します。

洋館

 明治10(1877)年に、この地で郭百輔により郭医院の薬局兼待合室として建築され、これを建てた職人らによって「異人館」と呼ばれていました。この建物は正面に大きなベランダが付いているのが特徴で、そのため建築史学では「ベランダコロニアル様式」と呼ばれています。この様式は、アジアに進出したヨーロッパ人が、現地の高温多湿の気候に対応して生み出したものといわれ、鎖国を解いた長崎、横浜、神戸などの開港地に多く建築されました。
 この洋館を建てた大工棟梁は土井弥助という人物です。郭家には「神戸から大工を呼んで建てた」と伝わっていますが、それ以上の経歴は現時点では明らかではありません。この洋館のように、明治初期大工が伝統的技術を用いて建てた洋館のことを「擬洋風建築」と呼び、この期の日本の建築として再評価されています。
 幕末から明治初期の洋館として長崎市のグラバー邸(文久3年)、松本市の旧開智学校(明治9年)、札幌市の時計台(札幌農学校演舞場 明治11年)、などがよく知られていますが、明治10年完成の郭家洋館は、ちょうど旧開智学校や札幌の時計台とほぼ同時期の完成で、我が国の残存する洋風建築として最初期のものの一つでです。また、当時の洋館は外国人が建てたものか、教育施設など公共建築として建てたものがほとんどですが、郭家洋館は個人が建築したものとして珍しく、残存するこの種の建築として我が国で最も古いものの一つといわれています。


         洋館正面                二階ベランダ

診察室

 洋館の奥に位置する部屋は元々診察室で、さらに奥は処置室でした。これらの部屋は昭和13年に今日のように居室に改装されましたが、診察室に使用されていた頃も畳が敷かれていました。これを建てた百輔は西洋医学を学んだ医者でしたが、当時は畳の上か畳の上のベッドで診察していたようです。郭医院の診察室は洋館と共に、明治初期の町医者の遺構として貴重なものです。

数寄屋座敷

 さらに奥には、座敷と茶室からなる建物があります。これは「伊達家から移築した」と郭家に伝わり、最初伊達家に建てられたのは襖絵などから天保年間(1830〜1843)と推定されています。
 茶室には炉が切られていますが、元々は煎茶のための茶室で、全体は質の高い自由な意匠が見られる建物です。千利休に代表される抹茶は主に武家や寺院により庇護されましたが、煎茶は文人や学者らによって支持され、幕末から明治期にかけて煎茶は大いに興隆しました。この様に郭家の数寄屋座敷は、幕末・明治の歴史を今に伝える貴重な建造物です。